Wednesday, September 6, 2017

終わりに(その五)

後書き

 五

 最後に本作のテーマにかかわる問題点を指摘しておきましょう。現代の目から見ても非常に興味深い問題が読み取れます。

 「悪魔の悲しみ」はファウスト伝説にのっとった物語です。ファウスト伝説というのは、現世的利益(金を儲ける、美人と結婚する、など)を得る代わりに悪魔に魂を売るという、誰もがよく知っている話です。クリストファー・マーローの「ファウスト博士」やゲーテの「ファウスト」、ミハイル・ブルガコフの「巨匠とマルガリータ」、ちょっと変わったところではウィリアム・ヒョーツバーグの「墜ちる天使」、いずれもファウスト伝説を利用した、あるいはファウスト伝説にひねりを加えた傑作です。マリー・コレーリもなかなか独創的な伝説を創り出しています。天使ルシファーは、神が人間に神性を付与するのを見て反対し、人間を徹底的に滅ぼしてやると叫ぶ。その結果ルシファーは天を追われ、人間を堕落させることに全力を尽くさなければならなくなる。これがパラドキシカルな状況のはじまりです。ルシファーは自分の目論見に成功したとき、つまり人間を堕落させたとき、みずから天への道を閉ざすことになり、失敗したとき、つまり人間が真の信仰心を見せたとき、天へと一歩近づくことができる。ルシオはこの伝説にたいして「詩的なところがある」といい、ジェフリー・テンペストも「美しい」などといっていますが、じつはここにこそ「悪魔の悲しみ」の最大の問題点が隠されているとわたしは思います。それを説明するには意外かもしれませんが、ジェフリーの信仰の構造、彼とシビルの夫婦関係を見なければなりません。

 ジェフリーの信仰の構造は非常に奇怪です。金持ちになってからのジェフリーは道徳的に堕落していきます。ギャンブルをし、いかがわしい店で遊びほうける。彼は神を信じていません。しかも「男というものは好きなことをなんでも、好きなときに、好きなようにしてよいのだと考えていた。その気になれば獣より堕落することもできる」と考えている。ところが妻にたいしては「自分の汚れと正比例の完璧な純潔さを求める権利がある」と思っているのです。そして妻のシビルが自分と同じ堕落した人間であることが明白になると、彼は絶望し、湖のまわりをうろつきながら自殺を考える。なぜシビルが純潔で、信仰心を持つことが、彼にとってそれほどに大切なのでしょうか。彼自身が神に祈らないのなら、そして祈りなどまったく無意味だと思っているのなら、妻が祈らなくてもかまわないではありませんか。

 一見すると矛盾撞着したジェフリーの態度からわかるのは、彼は神を否定しているが、しかし神を信じている他者を必要としているということです。あたかも彼は信仰心をみずからの外にはじき出して徹底した無神論者、堕落した存在になるけれども、外にはじき出した信仰心、貴重な自分の一部を、無用のものとして捨てることができず、それを他者に預け置いているかのようです。すなわち彼はみずから祈ることはないが、他者を通して祈るのです。ジェフリーはじつは神を信じている。ただしその信仰心は他者の中にあると言ってもいい。

 神を信じる心、罪の意識といったものは、普通、神を信じる人の内部、罪を感じている人の内部にあると考えられています。しかしそうしたものが外部に存在することもありえるのです。この場合、その人と外部化された信仰心、罪の意識のあいだには、アンビバレントな関係が生じます。外部化された信仰心や罪の意識は、自分とはまるで正反対のものであり、自分にとっては無意味・無価値なものです。同時にそれは、もともと自分の一部であったもの、自分を構成する絶対的に必要な一部でもあるのです。こう考えれば、ジェフリーが無神論者であり、神を否定するけれども、同時に自分の信仰心を預け置いているシビルに信心深さや純潔さを要求する理由がわかります。彼女に信仰心がないということは、ジェフリーにとって何よりも大切な自分の一部がなくなることを意味するのですから。ジェフリーは彼女を「商品=もの」として扱いますが(シビルは女が「おもちゃ」扱いされることにたいして猛烈に抗議していますね)、彼女の信仰心のあるなしは彼の生死を左右しかねない重大事なのです。

 これはとんでもなくおかしな「信」のありように思えるかもしれませんが、じつは谷崎潤一郎の「或る調書の一節」(一九二一)という短編なども、他者を通しての信というパラドクスを描いているのです。横道にそれるようで気が引けるのですが、面白いのでちょっとご紹介しましょう。

 この短編はAとB、二人の会話という形で進行します。Aは警察の取調官、Bは犯罪者である土工の頭です。Bは結構な収入があるのですが、家の外に女をつくり、賭博、窃盗、強姦、殺人と悪事の限りを尽くしています。ジェフリーが悪徳にふけるのと同じですね。Bは「私は一生悪いことは止められません。私は善人になれたにしてもなりたいとは思わないのです。悪い事をする方がどうも面白いのです」と言います。

 しかしBに罪の意識がまるでないかというと、そうではない。彼には女房がいて、彼が罪を犯すたびに、「どうか自首してください」「何卒改心してください」「真人間になってください」と言って、ぽろぽろと涙をこぼす。それを聞くとBはなんとなくしんみりしたいい気持ちになって自分も泣いてしまう。「胸の中がきれいに洗い清められるような気になる」。しかもこれがやめられない。この清浄な気持ちを味わうために、彼にとって女房は「非常に大切」な人間となる。とことん悪徳に浸っているのかと思いきや、実はBは「女房を通して」善良な心を持っているのです。

 注意しなければいけないのは、かりにBが一時的に「胸の中がきれいに洗い清められるような気」になったとしても、それで彼が善人になるわけではない、ということです。彼は「後悔したって始まらないと思います」と言い放っている。彼はあくまで悪事を行うことに固執する。善良な心は彼にとって外部的なものなのです。しかし他方において彼は女房に泣いていさめられると「ただその時だけちょいと好い気持がする」、そしてそれが<span class="dotted">やめられない</span>。やめられないのは、「善良な心=外部的なもの」が実は内部的なものでもあるからです。この外部にして内部、自分と正反対のものであり、かつ自分そのものでもある他者に対して、Bはジェフリーと同じようにアンビバレントな態度を取ります。Bはジェフリーがシビルをもの扱いするように、妻を「犬猫同然」に扱う。しかし同時に彼女を「非常に必要な人間」とも見なしている。このパラドキシカルな関係に取調官は困惑し、しつこく土工を追求することになるのです。

 イギリスでも日本でも外在化された「信」をテーマにした文学作品が書かれているという事実は非常に興味深い。しかも「悪魔の悲しみ」においてはヴィクトリア朝時代のブルジョア家族主義、「或る調書の一節」においては日本の家父長制家族が背景に存在しています。そしていずれの作品においても「夫」が、隷属する「妻」に祈る役目を押しつけている、あるいは押しつけようとしている。押しつけることによって夫は「効率的」に不道徳にふけることができたのではないでしょうか。西洋にはこんなジョークがあります。カトリックとプロテスタントは何をしてもいい。カトリックは罪を犯しても告解をすればいい。プロテスタントは罪を犯しながら罪の意識を感じればいい。これに悪のりしてつけ加えるなら、ヴィクトリア朝の紳士は何をしてもいい。家庭の天使である妻が、彼の代わりに祈っていれば。

 これとコレーリが考えだしたルシファー伝説とは、どう関係しているのか。もうおわかりと思いますが、ルシファーも他者を通して祈っているのです。ルシファーは神に反抗し、神が造った人間を堕落させると誓った。彼は目的にむかってまっしぐらに突き進んでいく。つまり徹底して悪を行う、あるいは行わなければならない。しかし彼は明らかに神への信仰を持っています。ただしその信仰は他者によって表現されます。つまり人間がルシオ=悪魔を否定し、神を選び取るとき、彼の信仰心は満たされ、一歩天へ近づくことができる。コレーリは本作の最後で、彼が天国へ昇る壮麗な場面を描き出していますが、谷崎風に言えば「ちょいと好い気持ちがする」というわけです。

 ジェフリーとシビルの関係、そしてルシオと人間の関係は完全にパラレルです。どちらの場合も前者は後者を見下しています。男は女より「すぐれた性」であり、ルシオにとって人間は「被造物」にすぎません。しかし前者は後者にその信仰心を預けていて、後者が神を信じることは前者にとって死活に関わる問題となる。前者は祈ることができません。しかし後者を通して祈るのです。ルシオはメイヴィスに、祈ることのできない者のために祈ってくれ、と言っていますね。このような転移された「信」の構造をファウスト伝説に組み込んだことこそ、コレーリの独創であったと思います。

 「信」の外部化は「悪魔の悲しみ」を読み解く鍵になります。たとえば、ジェフリーの文学作品も、彼の「信」を外部化したものと考えることができます。彼がみずから書いたものであるにもかかわらず、今や富裕の身となった彼が信じていない神への信仰、理想的な生き方を描いているのですから。(ジェフリーの文学作品は彼がみずから製作した「商品」です。シビルもロンドンの結婚市場で彼が購入した「商品」です。この作品において人は科学や啓蒙のおかげで神の存在といった「迷妄」から解き放たれていますが、しかし彼らの代わりに「商品」が祈る役割を担わされている。「信」の外部化は資本主義の体制と関連していると思います。本書では悪魔も人間も自由意志を持ち、選択の自由を持っていることが強調されています。自由な個人は前資本主義体制においてはなかったもの、資本主義体制に至って存在するようになったものです。)またメイヴィスのユニークさは、彼女と信仰=作品の間に乖離がないことだということもわかります。さらにコレーリにとっては芸術が「信」の疎外の問題と切り離せないということも見えてくるでしょう。

 すこしはしょった書き方をしてしまいましたが、もしも理論的なものに関心があり、「悪魔の悲しみ」をさらに深く読み解きたいとお考えになるのでしたら、ぜひ哲学者のスラヴォイ・ジジェクや、ロベルト・プファーラーを参照してください。とくにネット上でも読めるジジェクの The Interpassive Subject という短い論文、そしてプファーラーの On the Pleasure Principle in Culture という本は、「信」の転移の問題を明快に説明しているだけでなく、これがわれわれの日常のあらゆる局面(商品フェティシズムから子供の遊びに至るまで)に存在することを教えてくれます。「悪魔の悲しみ」は文学からこの問題を考えようとする人々にとって、格好の出発点になるのではないでしょうか。

Tuesday, September 5, 2017

終わりに(その四)

後書き

 四

 さて「堕落した女」と「新しい女」についても簡単に説明しておきましょう。

 本書では女性の堕落が何度も問題にされています。出版社のモージソンは、最近は家庭内に不道徳な事件が起きるという話が受けるんだ、と言い、シビルは不貞をはたらこうとし、ルシオは子育てに専念しない女性をこっぴどく批判し、堕落した女性を嫌悪しています。テンペストがはじめてシビルに出会った劇場では堕落した貴婦人を賛美する芝居を上演していました。じつは一八九〇年代は「不道徳な女」、「過去のある女」を主題にした文学作品がおそろしくたくさん発表された時期でした。とりわけ演劇ではこの主題が大人気だった。誘惑に屈する処女、捨てられた情婦、不倫をする女、未婚の母、等々を扱った劇は、もともとはフランスで盛んに演じられていたのですが、九〇年代に入ってその流行がイギリスにもやってきました。ヘンリー・アーサー・ジョーンズやアーサー・ウィング・ピネロといった劇作家は隨分この手の作品を書いていますし、オスカー・ワイルドやジョージ・バーナード・ショーも例外ではない。当時のはやりの劇はみんなふしだらな主題を扱っていたと言っていいくらいです。特にピネロの「タンカリーの後妻」(一八九三)は有名です。上流階級のタンカリーが身分違いの、しかもいかがわしい過去のある女と再婚します。後妻は上流人士の生活に自分を合わせようとしますが、なかなかうまくいかない。そこに決定的な悲劇が生じます。タンカリーの娘(後妻にとっては継娘)が恋に陥るのですが、その相手というのが後妻と昔関係のあった男だったのです。これが原因となって後妻は自殺してしまう、という内容です。

 「ピーター・パン」の作者J・M・バリーは、この手の劇の氾濫を風刺して「アリス」(一九〇五)という抱腹絶倒の喜劇(半分小説で、半分戯曲のような作品です)を書いています。一週間に五回も六回も「過去のある女」の演劇を見ている二十歳前の女の子が、お芝居に想像力を刺激されたせいでしょうか、自分の母親が父親以外の男と関係を持っていると妄想するようになるのです。「悪魔の悲しみ」の中でシビルは自分のことを「いまの時代の道徳的な堕落と扇情的な文学によって、徹底的にしつけられてきた退廃的な女」などと言っています。これを読んで、文学ごときに人間性がそれほど左右されるものかと、彼女の言葉の大袈裟さに鼻白んだ方もいらっしゃるかもしれませんが、しかし女の堕落を描いた作品は事実として当時非常に多かったし、女性はこうした作品に接すると、その影響を強く受けると一般に考えられていたのです。今の世の中でも、ポルノグラフィーが性犯罪の誘因になっていると考える人がいるのと同様です。

 堕落した女にかてて加えて、「新しい女」も世間を騒がせていました。「新しい女」とは今で言うフェミニストのようなものです。(ちなみに本書には「新しい××」という言い方がたくさん出てきますが、この当時は間近に新世紀が迫っていることもあって、いろいろなものに「新しい」という形容詞がくっつけられました)十九世紀のイギリスは産業化が進み、女性が有力な労働力として社会に進出するようになりました。そうなれば当然、女性の権利の拡大が求められ、古くさい道徳観や慣習が否定されるようになります。旧来のおしとやかな女性、夫を慰め、子供を優しく育てる女性ではなく、自転車に乗って颯爽と道を行く女性、鼻眼鏡をかけ堂々と議論する女性、スポーツをする女性、煙草をふかす女性、性愛や結婚に対して新しい考え方を持つ女性。こうした女性が世紀末のイギリスに登場し、雑誌や新聞の紙面をにぎわせたのです。

 「新しい女」は小説によってよく主題として取りあげられました。ハーディ、メレディス、ギッシングといった大物作家も「新しい女」を扱った作品を書いていますし、九〇年代に入ると、本書でも言及されている「新しい女流作家」たちが、かなりどぎつい論争的な作品を書くようになりました。とりわけ「悪魔の悲しみ」が出た一八九五年は小説の世界において「新しい女」がたいへん話題になった。この年の二月にグラント・アレンという作家が「やってしまった女」という小説を発表し、大人気になったのです。これは主人公の若い女性が恋人に、結婚せずに同棲しようともちかけ(彼女は牧師の娘ですからこれだけでもうスキャンダラスです)、そのために恋人が死んだときに遺産を受けることができず、シングル・マザーとして娘を育てるという話です。この女主人公は「新しい女」の典型と見なされ、またこの作品はフェミニズム運動において里程標的な一冊と考えられています。さらにこの作品に刺激されて、同じ年のうちに二冊の似たようなタイトルの本が出版されました。ヴィクトリア・クロスの「やらなかった女」とルーカス・クリーブの「やろうとしなかった女」です。この現象は、「悪魔の悲しみ」が書かれた時期、「新しい女」にどれだけ注目が集まっていたか、そして「新しい女」がどれだけ盛んに議論されていたかということを象徴的に示していると思います。実際、九〇年代は、ノーティー・ナインティーズ(お行儀の悪い九〇年代)などと呼ばれることもあります。


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 「堕落した女」と「新しい女」は厳密に言えば別物ですが、ただどちらも旧来の女性道徳に反旗を翻したという点では同じです。そのためごちゃ混ぜにされて論じられることもしょっちゅうでした。「悪魔の悲しみ」で言えば、シビルは堕落した女であり、メイヴィスは新しい女(もっとも通俗的な「新しい女」のイメージからはかけはなれているようですが)と言えるでしょう。しかしシビルは自分のことを「新しい女」の時代の一人と考えているようですし、ルシオが女性を非難する口ぶりを見ていると、「堕落した女」と「新しい女」は截然とは区別されていないように思えます。

Monday, September 4, 2017

終わりに(その三)

後書き

 三

 「悪魔の悲しみ」は百年以上も前に書かれた作品なので、多少は歴史的な背景について説明が必要でしょう。それを「物質主義」「心霊主義」「堕落した女」「新しい女」という四つのキーワードに沿って簡単に試みておこうと思います。また、百年以上前に書かれた作品であっても、非常に現代的な問題がそこに読み取れるということも指摘しておきたいと思います。

 まずは「物質主義」。誰もがご存じでしょうが、十九世紀のイギリスでは産業化が進み、中産階級が拡大し、帝国主義国家として大いに経済が繁栄しました。そこで生まれてきたのがこの物質主義です。下世話な言い方をすれば、お金を儲け、美食を味わい、宝石を身につける。こうしたことに人生の価値を置き、精神的なものや宗教的信仰をないがしろにする態度です。J・ジェフリー・フランクリンという学者によると、「物質主義」という単語は当時、無神論、科学、マモニズム(拝金主義のことです。本書にも「富の神マモン」という言い回しが出てきますが、それからできた言葉です)などを指す言葉として一般的によく使われました。そして物質主義は人間の魂を否定するものとして、時代の悪の根源のように見なされていたのだそうです。物質主義が科学をも含んでいるというのは、ちょっと奇異な感じがするかもしれませんが、しかし「悪魔の悲しみ」を読めばおわかりになるように、科学は神や魂の存在を否定していたのですから、無神論と同等と見なされたのも無理はありません。ダーウィンの進化論も、動物は神の創造物という従来の考え方を否定して大きな衝撃を与えました。またルシオは物質主義者の傲慢さを幾度となく批判していますが、わたしはとりわけこれは当時の科学者の態度にあてはまるのではないかと思います。当時の科学者は自然の原理はほぼ解明しえたと考えていましたから。物理学者のウィリアム・トムソンなどは、物理的事実の根底にある大原則はしっかりと定められた、あとは小数点以下の数値を精密に決定するだけだ、とまで言っています。

 こうした物質主義に対していろいろな形で反発が表明されました。その一つが本書にもあらわれている「神秘思想」あるいは「心霊主義」とでも呼ぶべきものです。おそらく本作を読んでいちばん「おや」と思うのは、キリスト教を擁護しているようで、正統的なキリスト教の考え方からはずれた要素が多々見られる、ということではないでしょうか。輪廻思想も見られますし、脳細胞は原子であり、そのなかには記憶がつまっている、などという奇妙な議論が展開され、悪魔のいっぷう変わった位置づけがなされる。シビルが死ぬとき、いや、新しい生の段階に移行する際の描写も異様で、キリスト教とは関係のないオカルト的な発想がまじっていることは明らかです。さらにコレーリの処女作「二つの世界のロマンス」ではイエスやモーゼは体内から電気を発し、その力で奇蹟を起こすことができたのだ、などと書かれています。電気ウナギじゃあるまいし、逆にキリスト教を冒涜しているともとられかねない考え方です。しかしこうした混淆はコレーリの独創というより、ヴィクトリア朝末期に特徴的に見られた現象でした。

 じつはイギリスでは十九世紀前半から霊的なものへの関心がとても高かった。三〇年代はフランツ・アントン・メスメルの「動物磁気」に関心が呼び起こされました。宇宙には目に見えない流体が存在し、それが人体をも天体をも流れている。この流体の体内におけるバランスが健康状態を左右する。そう考えたメスメルは流体が体内を適切に流れるように、金属の磁性を利用した治療をこころみたのです。四十年代に入るとニュー・イングランドで発生したオカルト・ブームがイギリスにもやってきて、大流行します。霊媒があらわれ、降霊会が開かれるようになり、テーブルが持ちあがるのを見たり、死者の声を聞いたりした、というわけです。さらに六〇年代にはいると、オカルト的な世界観といったものが組織化されていきます。「悪魔の悲しみ」にもブラバツキー夫人、ベサント夫人といった名前が出てきますが、こうした人々が神智学協会を設立し、オカルト的な思想の由来や原理が定められていきます。このときにエジプトの多神教とか、カバラとか、プラトニズムとか、占星術とか、グノーシス主義、ヒンデゥー教、仏教といったいろいろなオカルト的教義が混淆されていったのです。マリー・コレーリのニュー・エイジ的な宗教観も明らかにこうした流れの中にあります。実際彼女は一時期、薔薇十字会とも関係がありました。


Hours with the ghosts, or, Nineteenth century witchcraft - illustrated investigations into the phenomena of spiritualism and theosophy (1897) (14591719210).jpg
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 先にも言いましたが、心霊主義やオカルト思想には、物質主義への反発という側面があります。「神は死んだ」という標語に代表されるように、科学によって宗教的なものが否定されるようになり、正統的な信仰が力を失ってきた。ところが心霊主義は霊媒を通して死者が語ったり、音を立てたりするわけですから、これこそ霊的な世界の証明であると、すくなくとも一部の人には、めざましい説得力を持っていた。心霊主義は科学主義によって凋落したキリスト教を再活性化しようとする試みであったともいえます。もちろんそれは代償をともなった。つまり正統的なキリスト教とは関係のないいろいろな要素がキリスト教にもちこまれてしまったという代償です。そのあたりの事情を「悪魔の悲しみ」は非常によく表しています。

Sunday, September 3, 2017

終わりに(その二)

後書き

 二

 本書の作者マリー・コレーリ(本名メアリ・マッカイ)の紹介をしておきます。彼女は一八五五年、ロンドンのベイズウオーターに生まれました。父親はジャーナリストで作詞家のチャールズ・マッカイ、母親はその家の女中メアリ・ミルズ……。そう、早い話がマリーは不義の子だったわけです。ただしチャールズは奥さんが一八六一年に亡くなるとメアリと結婚しています。

 マリーは十四歳の時、フランスの修道院付属学校へ行き、一八七三年にロンドンに戻ると、ジャーナリストとして身を立てようとします。ピアニストになることも考えていたようですが、こちらはじきにあきらめています。一八八六年にはマリー・コレーリのペンネームで最初の小説「二つの世界のロマンス」を発表。若い女性ピアニストが霊的な世界を発見する物語で、作者のトレードマークであるニューエイジ的な宗教観が展開されています。この年には「復讐」という小説も出しています。ペストにかかって一度死んだ貴族が墓の中で蘇生するのですが、家に戻ると最愛の妻が自分の親友と乳繰り合っている。結婚してから妻にずっと不貞をはたらかれていたことを知ったこの貴族は、嫉妬に狂い、二人に復讐するという物語です。この作品は日本でいちばんよく知られたコレーリの作品でしょう。黒岩涙香と江戸川乱歩がともに「白髪鬼」というタイトルで翻案作品を出していますから。わたしは未読ですが、平井呈一による翻訳もあるようです。

 このころは義兄(父と最初の妻のあいだに生まれた子)と衝突したりして、精神的につらい時期だったようですが、彼女は次々と話題作を生み出していきます。とくに一八八九年の「アーダス」は評判がよかった。主人公が異世界に移動するという、SF的な仕掛けをほどこした神秘的・宗教的な小説です。政治家のグラッドストーン、詩人のテニソンに絶賛され、ヴィクトリア女王からは、これ以後あなたの作品はすべてバッキンガム宮殿に送ってください、という電報が来たくらい人気になった。オスカー・ワイルドも「すばらしいことをすばらしい書き方で描き出している」と褒めたたえています。

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By F. Adrian - Appleton's Magazine: https://archive.org/stream/appletonsmagazin04newy#page/806/mode/2up, Public Domain, Link

 一八九三年に発表した「バラバ」もたいへんな好評でした。バラバはもちろんイエスが十字架に磔にされた日、恩赦を受けて釈放された泥棒のことです。コレーリはイエスが処刑され復活するまでの出来事をことこまかにこの三巻本の小説に書きました。そして最後には泥棒で殺人者のバラバがキリストの教えを信奉するようになるのです。この本は一年ちょっとのあいだに十四版を重ね、ヨーロッパの六つの言語に翻訳されました。しかし読者のあいだでは大変な評判だったのに、批評家にはこきおろされました。処女作の頃から批評家はとかく彼女に対して批判的であったのですが、両者の確執はこれを機にますます烈しくなる。本書「悪魔の悲しみ」の冒頭に批評家への謹告が掲げられているのを見て、驚かれた方もあると思いますが、それにはこういった背景があったのです。

 さて一八九五年に発表された「悪魔の悲しみ」ですが、これはイギリスで最初の(それゆえ世界で最初の)ベストセラーと言われています。なぜ「最初」なのか。これはイギリスの出版事情と関係があります。簡単に言うと、「悪魔の悲しみ」が出版される以前は、本というのは高価な商品で、一般人が購入できるようなものではなかった。大抵、貸本屋で借りるものだったのです。そして出版社は収益をあげるために、一冊の本を三冊に分けて出すのが普通でした。いわゆるスリー・デッカーと呼ばれる本です。ところが一八九五年にこの出版形態ががらりと変わりました。本は最初から廉価な一冊本として出版されるようになったのです。つまりイギリスは、本を借りる国から本を買う国に変貌したのですね。そしてこの変化が生じてから最初に人気を博した本、それが「悪魔の悲しみ」だったのです。

 メシュエン出版社から出た五百ページほどのこの本はじつによく売れました。部数はわからないのですが、出版されて一年あまりのあいだに三十二版(!)を重ね、その後も一九二〇年に至るまでほぼ毎年新しい版が出ています。コレーリの本は、ドイル、ウエルズ、キップリングを含む、当代の人気作家全員の本の売り上げよりももっと多く売れたそうですが、そう言われるだけのことはあります。ちなみに本書は二回ほど映画化もされています。

 コレーリはその後も「ジスカ」(一八九七)とか「マスター・クリスチャン」(一九〇〇)とか「イナセント」(一九一四)といった作品を発表しますが、第一次世界大戦中に食料の買いだめの罪を問われ、一夜にしてイギリス中の人々から憎まれることになります。この事件をきっかけに彼女は人気を失い、彼女の最後の作品である「愛と哲学者」(一九二三)はほとんど注目されることがありませんでした。

 コレーリは一生結婚せず、子供時代の女性の友達と一緒に暮らしました。なかにはレズビアン的な関係を疑う人もいますが、ヴィクトリア朝時代には未婚の女性同士が生活をともにすることはよくあったことなので、はっきりしたことはわかりません。また彼女は既婚者である画家のジェイムズ・サバーンに熱烈な思いを寄せ、「悪魔の車」(一九一〇)という短い童話のような作品を彼のイラスト入りで発表したこともあります。もっともこの恋がかなうことはありませんでした。

Saturday, September 2, 2017

終わりに(その一)

 「悪魔の悲しみ」の翻訳作業が終わりに近づき、いろいろ忙しくなってきた。あと数回訳文のチェックをした後、epub版の作成や、表紙の作成をしなければならない。これが結構たいへんなのだ。とくに美的なセンスのない私にとって表紙の作成はアタマがいたい。

しかし解説はそれなりによいものが書けたと思っている。私がミステリの問題点として考えてきた外形性の問題が、「悪魔の悲しみ」では「信」の外部性という形で展開されていることを指摘できたのだから。たぶんこんなことは今まで誰も指摘していないだろうし、私はこれは重要な論点になると思う。

 というわけで、翻訳作業の終了が目前に迫ってきたのでこのブログはここで終了しようと思う。初回に書いたように「唐突に」終わりを迎えることになったが、しかしこのブログであれこれ考えたことが「悪魔の悲しみ」の読解に大いに役に立ったことは間違いない。その意味では立派な成果を出してこのブログは終わることになる。

 最後に新しい翻訳の後書きをここに転載しておこうと思う。私は後書きを読んでその本を買うか買わないか決めることが多い。この後書きを読んで本を買ってくれる人が増えたらうれしい。隨分苦労して訳出した作品だから。(後書きは長いので五回に分けて掲載します)

――

後書き

 一

 本書を読まれた方は、主人公のジェフリー・テンペストをどのような人間だと想像されたでしょうか。

 一九二二年の五月、パリにいたジェイムズ・ジョイスは、とあるパーティーではじめてマルセル・プルーストに会いました。プルーストが毛皮のコートを着てようやく部屋に入ってきたとき、ジョイスはその格好を見て「『悪魔の悲しみ』の主人公みたいだ」と思い、そのことをパーティーの帰りに友人に語っています。リチャード・エルマンの伝記によるとジョイスが「悪魔の悲しみ」を読んだのは一九〇五年ごろのこととか。「失われた時を求めて」の作者に会ったのは、それから十七年後のことです。そんなに時間が経っても、ふとその小説のタイトルを口にしたということは、「悪魔の悲しみ」の印象がそれなりに強く残っていたということでしょう。ジョイスも堕天使の物語に惹かれ、自分の作品の中に取り込んでいたのですから、彼が「悪魔の悲しみ」をよく覚えていたとしても不思議ではないのですが、しかしそれにしてもプルーストとの初めての出会いでこの作品の名を出したという事実はちょっと意外で印象的です。わたしはこの挿話が非常に強く記憶に残り、「悪魔の悲しみ」を読むときはいつも、あのまぶたの重たげなプルーストの顔を思い浮かべてしまいます。

Saturday, August 19, 2017

「タンカリー氏の後妻」 アーサー・ウィング・ピネロ

The Second Mrs. Tanqueray (1893) by Arthur Wing Pinero (1855-1934)

 「堕落した女」というテーマはもともとはフランスの演劇界で大流行だったテーマだ。たしかヘンリー・ジェイムズがフランスの演劇について、このテーマばっかり、とこぼしていたような気がする。その流行が一八九〇年代にイギリスにもやってきた。
 今訳している「悪魔の悲しみ」にもこんな一節が出てくる。
最近舞台監督が好んで取りあげる例の主題を扱った芝居だよ。『堕落』した貴婦人を賛美するというやつさ。堕落した婦人が、じつは純粋で善良きわまりないことを示し、素朴な観客たちの目を驚かそうというのだ。
ピネロ
こういう劇はちょっと前まではイギリスで上演されなかったものだ。堕落した婦人が純粋さ、善良さを持つなどというのは、社会風俗の混乱を招く、というのがその理由である。ところが十九世紀後半のイギリスでは性風俗に一大変化が起きていた。面倒なのでいちいち確かめないけれど、ある医者が女性のある種の病気には性行がよく効くとか言って、性交渉を勧めたり、女性の権利にめざめた人々が因習的な道徳観念を否定して、結婚や性の関係に新しい考え方を持ち込んだのだ。

 こういう背景があったせいなのだろうか、「堕落した女」というテーマはイギリスでも大流行した。その手の劇のあまりの猖獗ぶりに、「ピーター・パン」の作者バリーは「アリス」という劇を書いている。二十歳前のあるうら若き乙女は、友人と週に四度も五度も「堕落した女」を扱う劇を見ている。夫が出てきて、妻が出てきて、妻が知り合いの男と不倫するという、おきまりのパターンの演劇だ。それによって想像力を刺激されたのだろうか、彼女は自分の母も知り合いの男と不倫をしていると考えるようになる。それくらい「堕落した女」は九〇年代から二十世紀のごく初期の頃までおおはやりした。

 その中でもとりわけ大評判となったのが「タンカリー氏の後妻」である。はじめて読んだが、ギャグが織り込まれたり、適度に深刻さを装っていて、なるほど大衆にも批評家にもそれなりに受けそうな作品と感じられた。

 筋書きはこんな具合だ。上流階級のタンカリー氏はある日友人を招いて、自分が再婚する予定であることをもらす。しかし相手が問題だ。後妻となるのは、過去においていろいろ男といかがわしい噂のあるポーラという女だ。しかも彼女は下層階級に属する。しかし少々お坊ちゃま的なナイーブさがあるタンカリー氏は、自分の愛を貫き、彼女と結婚する。

 当然予想されることだが、しばらくするとポーラはこの結婚生活に退屈しはじめる。とくにタンカリー氏が最初の妻とのあいだにもうけた娘、つまりポーラにとっては継娘になるのだが、この娘がポーラになつかない。険悪な態度を取るわけではないけれど、なんともよそよそしいのである。

 さて、ここで問題が起きる。娘は友人と一緒にパリへ旅行に行き、そこである軍人と知り合い恋に陥りいる。この軍人というのが、ポーラが昔つきあっていた男なのである。ポーラは娘に軍人の中を裂こうとするが、結局は自殺してしまう。

 粗筋を書いていても最後の自殺がいかにも唐突に響く。昔の恋人が継娘の結婚相手になる、と
ポーラを演じたパトリック・キャンベル
いう事態は確かにショッキングかもしれないが、ポーラはそれで自殺するほど動揺するタマではないはずである。しかしそれが自殺してしまうというところに、ある種の純潔さを暗示しようとしているのだろうか。正直言ってどうもピンとこない。

 この劇を読み終わってからしばらく考えていたのだが、このピンとこない感覚はどこかで味わったことがあるという気がしてきて、ふと夏目漱石の「虞美人草」を思い出した。そういえば、あの作品の最後で藤尾が死ぬのもどうも理解ができなかった。はっきり言って藤尾は魅力的な近代的女性である。これからの世界でのしていこうとしている女なのである。一方、小夜子はたかが田舎娘である。その貧相なこと、藤尾の敵じゃない。小野さんが小夜子より藤尾に魅力を感じるのは当たり前じゃないか。しかし作者はどうしても藤尾を悪者にしたかったらしい。それで彼女を殺してしまうのである。しかし無理に彼女を殺してしまうものだから、読者には(すくなくとも私には)どうもピンとこない、という印象を与えてしまうのだと思う。

 「タンカリー氏の後妻」も同じじゃないだろうか。ポーラは罪の意識と言うより、何かイデオロギーのようなものに殺されたのじゃないだろうか。

Tuesday, August 15, 2017

「マスター・クリスチャン」マリー・コレーリ作

The Master-Christian (1900) by Marie Corelli

 正直に言って無駄に長い小説だった。前に語られたことがしつこく、何度も繰り返され、思わず好い加減にしてくれと叫びたくなった。よくわからないが、連載もので、読者の記憶を新たにするために繰り返しが多くなったのだろうか。

 長大な小説だが肝腎な部分だけ筋を抜き出すとこうなる。枢機卿のフェリックスがあるとき教会の前で一人の男の子を保護する。実はこの男の子は天使が姿を変えて地上に現れたもので、不思議な力を持っている。もちろんフェリックスはそんなことなど知らない。

 滞在先でフェリックスは、貧しい子供たちから、友達の中に足のきかない子がいるから、治るように祈ってくれないかと頼まれる。子供たちは偉い枢機卿が祈れば、神様はきっと足のきかない子供を元気な身体に戻してくれると考えていたのだ。フェリックスは信仰が厚く、人格の優れた人ではあるけれど、自分の祈りで病を治すことはとてもできないと正直に言う。しかし祈るだけは祈ってみようと約束する。

 ところが祈ってしばらくすると足の悪い子供は、本当に動けるようになったのだ。もちろんフェリックスに保護された天使のおかげなのだが、人々は、フェリックスが軌跡を起こしたと大騒ぎする。

 さて、この噂がローマの法王の耳にとどく。マリー・コレーリが描くローマの法王庁は、実にいやな人間どもの巣窟である。とにかく金に汚い。がめつい。自分たちの利益のために陰謀を巡らす。スパイを派遣することも平気だ。キリスト教の根本的な思想なんてどうでもいい。彼らにとっては自分たちが豊かになり、自分たちの身分が保障されることが何よりも大事なのだ。

 彼らはフェリックスを法王庁に呼びつけ、彼が起こした奇蹟の取り調べを行おうとする。ところがフェリックスと一緒に来た、男の子の姿をした天使が、烈々火を吐くような言葉遣いで法王と法王庁を批判するのだ。これがきっかけとなって法王庁はフェリックスと男の子を迫害する計画を立てる。そして後者の二人は命からがらイタリアを脱出することになる。

 これがメインの筋で、その他にフェリックスの姪で画家のアンジェラの話、革命家の話など、いくつかのサブ・プロットが存在する。

 宗教改革が起きるときは、いつも「今の信仰の形は、形式にとらわれている。信仰を信者の心に取り返さなければならない」と言われる。マリー・コレーリが描き方を見ると、法王庁は物質主義と拝金主義に陥って、本来の信仰心を失っている。それに対立するのは信仰心をみずからの中にたもっている人々である。つまり作者はこの作品で宗教改革の必要を説いていると言っていいだろう。これは他の作品でも作者が繰り返し主張していることだ。ただ、この主張はあまりにもまっとうすぎて、すくなくとも私にはひどく「くさい」ものに感じられる。マリー・コレーリの思想の幼稚さが出ているように思う。

 アンジェラの話はいわゆる当時の「新しい女」を擁護するような内容になっている。従来女は結婚して良人のよき慰め手、パートナーとなるべきと考えられていたが、十九世紀の後半になるとそれに異議を唱える人々が出てくる。とくに一八九〇年代には、そういう人々が大勢あらわれ、新聞や雑誌で揶揄的に言及されたものだ。アンジェラは画家で、物語の時点で大作の製作に取りかかっている。完成したそれを見るとキリストを描いたすばらしい傑作である。ところが彼女の恋人は(恋人も画家だ)、それを見て、アンジェラの才能に嫉妬し、彼女を殺そうとするのである。彼女は男の子の姿をした天使のおかげで、一命を取り留めるのだが、この挿話で言わんとすることは非常に明瞭だ。女であっても男以上の創造的才能を発揮することができる。決して女は家庭の守り手で終わる存在ではないということだ。

 「新しい女」が登場し出すと、とたんに世の中には「女は男よりも劣った性である」といった言説があらわれたが、そうした男尊女卑の考え方にマリー・コレーリは真っ向から対立している。いささか単純すぎる図式的な思考とはいえ、一九〇〇年の社会状況をよく示す物語にはなっている。